しかし神性及び獣性への人間性の徒なる擴張は、單に人間性の混亂を惹起するのみである。それは再び人間性に收斂されなければならぬ。甘味は鹹味を伴はねばならぬ。しかしそれは恐らく單に人間の主體性の内に求められることとは出來ぬであらう。階級は民族も直ちにその中心たることは困難である。そこには單なる机上の計畫及び難き新なる人間型の鑄造の問題がある。それは我々すべてに課せられた、しかして歴史的現實に於てのみ解決される歴史的課題である。今日ヒューマニズムが問題とせられるには、かかる課題的な意味が多いであらう。しかし我々はそれについて何事をも述べ得ないか。私の希望は、新なるヒューマニズムが個人、民族、及び階級を媒介とせる世界史的性格を有することを願つてゐる。人道主義的ヒューマニティの欠陥は、現実の世界より遊離せる抽象的なる人間性であつたことである。しかして人文主義的ヒューマニティは未だ現実の世界を知らなかったところに欠陥を有した。我々は現實の世界と歴史に帰らねばらならぬ。新たなるヒューマニティは歴史的世界に立脚する世界歴史的性格を有さねばならぬであらう。今日のすべては世界に淵源し、そこに解決の困難さと又同時に解決の方向が潜む、何故歴史的世界への人間性の廓大が、人間性の救濟となるかについては、述べるべき他の機會に讓る。少くとも、個人、民族、階級が歴史的世界に於てのみ意義を有し、歴史的世界を離れては、いかなる個人、民族、階級も成立しないことは注意さるべきである。ヒューマニズムの第三形態はそこに見出されるであらう。ヒューマニズムの流れ寄る泉は歴史に於ける世界である。しかして歴史的世界に新なる類型の人間の生誕によつて進展する。ヒューマニズムの第三形態は、教養人でも博愛人でもなく、正に世界人を要求してゐるのである。
――高坂正顕「ヒューマニズムの意義、限界、拡張」
いまでもこういう抽象論は生き残っており、百害あって一利なしである。しかしさすが高坂は、ヒューマニズムを頑固な教養主義=人文主義であることを前提に立論しているのだから、ここでの歴史や現実というのもそのような教養であり、べつにヒトラーの演説や人種差別主義のことではなかったのかもしれない。しかし、高坂はよのなか、信じがたくおかしなことが起こったときに、まだそれをヒューマニズムで乗り越えようみたいな下心があって、困ったあげくに「世界人」だと言うている。同様に、最近も、もと人文主義者みたいなのがやたら外国で研究しようみたいな経験主義に陥り、出羽守よりも非教養主義的になっているのが笑わせる。

例えば、高坂のような論法は、のちに佐藤通次が『学問の厳粛性』で、「宇宙人と君国人」みたいなものを書いて居丈高になっているのを防ぐことはできなかった。一見、佐藤の方が、高坂の先生でもある西田幾多郎に忠実なようにみえるところも面白い。佐藤は、個人ではだめで「我汝」が一体化した君民一体(君国人)がよく、それは個人主義が「宇宙人」みたいになっているゲーテよりもすごいんだと言っている。それはなんだかよくわからんが、フィヒテの「事行」的でもあるというのだ。これは佐藤が『皇国哲学』で展開したものの繰り返しであるが、ともかく、一見馬鹿がだまされるという点では、高坂のよりも「説得力」があるのだ。西田もそうであるが、要約するとろくでもなくなる哲学というのは何らかの問題を抱えているようなきがしないでもないけれども――それはさすがに多くの著者たちがかわいそうだ。多くの教室で展開されている説得力、要約、などがとにかくめちゃくちゃなのである。高坂は、なぜこういう現実を無視して、現実に、歴史に帰れなどと言っているのか。
そういえば、南原繁『国家と宗教』の岩波文庫の解説をこの前読んだのだが、果たしてこれでいいのかとお思わざるを得ない。わたくしもあまり南原の本文をちゃんと読んでない、――しかも高坂や佐藤よりも棒読みみたいな内容があまりすきではない――のだが、さすがに南原の文章は、もっとひりついているである。例えば、なんだろね――、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』の丸山真男の解説(岩波文庫)は、もっとそれ自体ひりついていた。丸山に人気があったのはその論理そのものではなく、そのひりつきなのである。小学校6年生でこれを読まされたわたくしだってそのくらいわかった。そして、吉野の著作は、そのひりつき自体がテーマなのである。吉野の言いたいのは、人は教養では感情を獲得できない。感情によっても教養を得ることはできない。しかし、人間の折れ曲がり――転向や変節による反省によってのみ感情と教養を得るのだということである。つまりそれがヒューマニズムである。
80年も転向意識から遠ざかった我々が、高坂や吉野が示唆するヒューマニズムから遠ざかっていることが日々思い知らされる。それはこういう高邁な思想の問題というより、単純な感覚によく表れる。幼児時代からたいした食欲がなかった私がいうのもなんであるが、――最近、グルメリポートはもとより、あまり旨そうにくう人間が映画でも何でも見られないような気がする。韓国映画「火山高」「風林高」を連続してみたら、――特に後者は、欺されたと思ってみたらほんとに欺されたと思った人が多い映画であろうが――それはともかく、役者達がラーメンを実に旨そうに食べている。我々はこんなことも失ったのだ。
傑作漫画の一つ、『モブサイコ100』であるが、五巻にたどりつくのにわたくしは5年もかかったが――それはともかく、あんまり人物達がものを食っている気がしない。普通、サイコキネシスでも念動力でもなんでもいいが、韓国映画みたいに沢山食うことが必要ではないか。まだ孫悟空はたくさん食べていたが、これが「宇宙人」の設定であったことが一抹の不安を感じさせる。我々は、佐藤通次ほど本気ではないが、宇宙人よりも君国人みたいな意識の存在に成り下がっているのではあるまいか。
国会図書館の佐藤通次の本には「此の本が二円八十銭とは「ちと」高い」と落書きがあった。いつの落書きか知らないが、まだ我々よりは正気だった人が多かったのかもしれないと思う。


に坐って居て、描かれる或ラインを地球の上に感じる。六十七歳のソホー老人もこの輪の片はじに引っかかって、常識ゆたかなる市民の前に投げ出された社会的の時代的楔の一つだ。自分は日本の社会にきり込まれる縦と横との線をこの二つの現象の上に感じるのだ。


