さちゅりこん2――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

雷神が来る意味

雷さまといえば、虎の皮の褌をしめた鬼が、沢山の太鼓をたたいている姿を思い出す。
 ああいう雷さまは、一体誰が考案したものか知らないが、なかなかいい。雷と電光とは、夏の景物の中では、出色のもので、少々怖いが、しかし威勢がよくて、悪気がない。虎の皮の褌をしめた雷さまも、決して悪鬼ではなくて、何となく親しめる鬼である。
 その雷さまの中での傑作は、宗達の『風神雷神』ではないかと思う。先年アメリカ各地で開催された日本美術展は大成功であったが、あの時にも、この宗達の『風神雷神』は、なかなか評判がよかった。

[…]古い時代には、鶏と何か観念上のつらなりがあったらしく、鶏に似た怪鳥けちょうの姿の雷がいる。その他、太鼓をもった醜悪な顔の怪童みたような雷、鳥と獣との間の子みたような奇怪な雷などいろいろあるが、宗達の雷神と較べたら、到底脚下にも及ばないものばかりである。
 それで、もしあの中央亜細亜の雷神たちから、一躍して宗達の雷神に飛躍したのだったら、宗達という人は、よほど傑い天才だったにちがいない。

――中谷宇吉郎「雷神」

 

ここ三日ほど、雷神が来ていた。我々のなかで育った雷が雷神である。

もっとも、雷神の周りにあるドラムセットみたいなものだって、実際の雷雲の中にみえないことはないと思う。風神の袋みたいなものはもっとみえる。しかし、見えたものを描くことが重要で、そこに我々が風神雷神とともに生きている意義がある。

これをAIになんかにやらしてはいけない。ほんとに自然が風神雷神を作ってしまったことになるではないか。

AIに死者を復活させてはならないのと一緒である。我々はへたくそな絵や文章で死者を生み出し自らが生きるからよいのである。