さちゅりこん2――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

余白について

 例えば恋愛にしても、私だってそれは女から好意を寄せられることはたまにはありますけれども、自分がそんな金持ちの子供に生れたという点で女に好意をもたれているに過ぎないというように、人から思われるのが嫌で、恋愛をさえ幾度となく自分で断念したこともあります。
 現に私の兄がいま青森県の民選知事をしておりますが、そう云うことを女にひと言でも云えば、それを種に女を口説くどくと思われはせぬかというので、かえっていつも芝居をしているように、自分をくだらなく見せるというような、殆ど愚かといってもいいくらいの努力をして生きて参りました。これは自分でももて余していて、どうにも解決のしようが未だに発見出来ません。

――太宰治「わが半生を語る」

 

みんなで貧乏になろう作戦はだめだとして、みんなで金持ちになろうも詐欺くさい。どうしようもないからみんなで一つのみんなになろうは犯罪的だ

ひとつの作戦として、太宰のように、金持ちの生まれなんですけど故に何も解決できませんとか言いながら、人から酒をせびるという手がある。

 

太宰の文章が天才的なのは、どことなく余白があるような気がするからだ。読者がその余白にすんでいい気がするのである。これは現代的なありかたで、マーラーにはなかった。しかし、彼の音楽は、時間が止まりかけていた。交響曲第3番なんかはそうであった。しかし、これを余白を作って聞いている側が寝そべって昼寝をできるようにしたのが、ウェーベルンである。

彼の若書き「夏風の中で」のスコアをはじめてみたところ、――たしかに何回も止まりそうな曲だとはおもっていたが、ここまでフェルマータだらけだとは知らなかった。意図的に余白があったのである。

 

学生と話していたら、おれよりも加藤シゲアキの小説を読んでるやつがやつらのなかにやはりいた。しかし、これはわたくしの余白ではない。