さちゅりこん2――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

教室と舞姫

 〈家族〉という概念の発生について、きわめて鋭い考察をしめしたのはフロイトの「集団心理学と自我の分析」であった。フロイトはモルガンーエンゲルスのように原始集団婚をはじめに想定せずに、ただひとつ「原始群族の父祖」という概念をはじめにもうけている。この「父祖」は原始的な集団の息子たちには理想でもあり同時に畏怖の対象でもあった。つまり禁制 (タブー)の対象になる両価性の条件をもっていた。そこで息子たちは団結してこの「父祖」を倒した。しかしそのあと息子たちの誰かひとりが「父祖」に肩代りしても不安定で、争いがたえないので、息子たちはたれもじぶんが「父祖」になるのを断念して、そのかわり禁制の対象である条件をもった物(たとえばトーテム)で「父祖」を象徴させるようになった。しかし息子たちは「父祖」でありたいという願望を圧殺することができなかった。そこで共同の集団のなかでではなく〈家族〉のなかで「父祖」としての位置を満足させるようになった。この〈家族〉は、一対の男女さえあればそれだけで集団の共同性とちがった位相にとじこもったより古い時期の〈家族〉とは意味がちがっている。集団の共同性にたいして、はっきりと固有の位置づけと根拠をもった〈家族〉である。フロイトによれば、こういう意味の〈家族〉をつくった息子たちは「父祖」を倒した時代にできた性の支配を破壊し、その償いとして母性神化をみとめた。

 フロイトのこの考えの原理になったのは、母を対象とした父親への息子の両価的な心理(エディプス・コンプレックス)ということである。これはモルガソーエンゲルスの考えでいえば集団内部での男・女の〈性〉行為の自由という動物生的な概念と対応している。

――「対幻想論」(『共同幻想論』)

 

100頁に満たない吉本隆明の『ひとり』(「15歳の寺子屋」シリーズ)をおやつ食べる勢いで読んだが、やはり吉本隆明には先生は無理だと思った。学校の先生みたいな人ばっかりになるのも地獄だが、吉本みたいな受け身的攻撃的不良があふれかえるのもどうなのであろうか。吉本の考察というのは、自身も言っているように「現象学」的であって、意識の中の「違和感」を捨象しないことに意識を集中する。

――吉本は子どもの頃、お酒ばかり飲んで授業もろくにしない教師が、自分たちがベーゴマをやり過ぎて別の教師に叱責されているときに、後方から「聞こえませーん」と助け船を出してくれて、そのだらしない教師が好きになったという。きわめてありふれた感覚であり、ほんとは、そのだらしない教師がほんとにだめであり、責任を負ったその叱責教師のほうがまだましでという、これまたきわめてありふれた事態の可能性には思いが及ばないのである。吉本の幻想論は、全部がこういう自己の違和感(幻想)から出立する。それがはじめから共同幻想であることを想定しない。思うに、彼が味方になっているのは「民衆」ではなく、マイノリティや不良やいじめられている?人たちなのである。共産党は学校の先生だ。階級闘争という大舞台を処理するためには、不良でもマイノリティでもないマジョリティの不幸をどうにかする必要があり、ベーゴマに興じている連中を叱責することも場合によっては大事である。村上春樹だって、吉本みたいな人で、――前にも書いたが、こんなに日本を支える思想家や文学者のような人ではなかったはずなのである。

――大学時代、小説を書いていた頃、大学の創作の先生から「三浦哲郎の短編みたいだ」と言われてショックであった。わたくしは、ロブ=グリエのつもりで書いたのに失敗して村上春樹みたいな感じになったと思っていたからだ。しかしよく考えてみると、ロブ=グリエの方が村上よりも昔の人であった。まあそれはともかく、我々の自己認知はかくも当てにならない。おもったよりも違うものを実現しているものである。で、その実現されたものがマジョリティなのであって、はじめの狙いがマイノリティだ。不幸なことに、吉本の場合、詩の言葉らしく評論を書くことで、――朔太郎や小林秀雄、花田清輝からの系譜で、その逆説に意識的でありすぎることがなかった。花田清輝はその逆説に意識的でありすぎて、戯曲や小説に向かいすぎたのかもしれない。

 

朝日新聞に、森鷗外「舞姫」教科書掲載70年とかで、明治時代の「くず男」に学ぶ、みたいな記事がでていたらしい。馬鹿馬鹿しいので読んでもいないが、結局、自分を意識の側に、マイノリティの側に置いておきたい人間が、豊太郎を糾弾しているに違いない。本質的に「舞姫」で起こっていることは、倫理的にというより、現実的によく起こるところの、「弱さ」によって生起する人間関係の推移であって、その進行のありふれたスピードの恐ろしさが小説的である。

まったく、「舞姫」についていまだに毀誉褒貶あって、さすがに現実的な噺だけあって、どんだけ「石炭をばつみはて」なきゃならないんだと言わざるを得ないが、この際、正直に言っておきたい。わたくしはいまからでもおそくはない、エリスと付き合いたい。おれなら、もともと相沢とかなんとか大臣に絡め取られるほど勉強ができないのでエリスと一生仲良く暮らせるにちがいないからだ。

だいたい、破廉恥な題材からしても、「舞姫」なんかまだあれだろ、「雁」を教科書に載せるよりかましなのだ。のみならず、ホモソ豊太郎を批判するくらいなら、ちゃんと宮台真司の千倍ぐらいのナンパマシーンである光源氏を暗殺してから言えと。そういえば、郷ひろみが主演した映画「舞姫」はなかなかのもんだったよな。まさにホモソコロニアルひろみで、まあ大日本帝国破滅まであと何年だよみたいなかんじがすばらしくラストの富士山がきれいであった。

豐太郎なんかは下々の嫉妬を買っているくらいだからまだよいのだ。明治初期、なんでも英語で言い換えて悦に入るような馬鹿がいろんな作品で風刺されてたりしたのであって、鷗外が「下々の皆さん、わたくしがドイツ語で女性をナンパできた森鷗外です」とぶち上げたのはさすがである。

先々週、共通科目で「舞姫」の一部を現代語訳させてみたのだが、正直言ってひどい出来だった。確かにこの作品、ここはほんとはどういう意味だろみたいなところはあるのであるが――こんな古文の実力で、なにゆえ、世のモラリストは、豐太郎をくず認定ばかりしているのであるか。教師が学生に気に入られるために豐太郎をくずだとはじめから言っているのであろうか、「あらず、これには別に故あり。」ほんとやたら人をクズ男扱いするというのはある種の「ニル・アドミラリイ」なのである。そして、この「ニル・アドミラリイ」は我々の現実であり、豐太郎がエリスを捨てた原因の一部なのだ。この現実においては「豐太郎クズだな笑えるわー」という高校生たちのつぶやきはそれ自体興味のあり方ではあって倫理的な批判だけで組成されているのではない。それを倫理的な批判として解釈したい、古文が苦手で怨恨を抱いている一部の生徒と教員が、自分を自己幻想として佇立させているに過ぎない。

鷗外は結末を優しく現実的にしすぎた。豊太郎は、兵十みたいにエリスか相沢をずどんと一発やってしまう、あるいはエリスが精神に変調を来した時点で「みんな気が違ってみんないい」とか言い放つ、あるいは登場人物全員でグループワークでもやって合意形成をはかればよかったのではないだろうか。フロイトではないが、父殺しは日本人の大多数にも理解できるし、コミュニケーションも理解できるらしいので。