さちゅりこん2――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

万博的癒やしとオペラ的混濁

小野寺の賢治論は、近代文学を、聖霊神学の視点から読み解くという興味深い具体例だが、著者のユニークな着眼から、これまでのどのような賢治研究にもない新鮮な風景が現れてくるかというと、率直に申して必ずしも鮮明ではない。それは高村光太郎における智恵子像に聖母性を見て取るあたりにも、小林秀雄の「無私の精神」と西田の「純粋経験」とを結びつけるあたりにも感じられることで、鋭い直観を感じさせるのは確かだが、そこから新しい世界を読者の眼前に次々と繰り広げていく批評の醍醐味がなく隔靴掻痒の読後感が残る。もとより、小野寺功は文芸批評家ではなく、また啓示された真理の言語的認識たる神学と、自我の言語的表現である文学とが背馳するものであることも承知してはいるのだが。

――神谷光信『須賀敦子と9人のレリギオ――カトリシズムと昭和の精神史』

 

最高気温が三〇度と、ちょうど夏らしい気温になってきたので、うえのように、朝顔が生えてきた。神秘でもなんでもない。四〇度近くが続く方が神秘である。小野寺功の論文よりも神秘的である。

ここ三ヶ月ぐらいは夏ではない。赫とか灼とかいうべきだ。

とはいえ、この気候の変化というのは、大きく見れば大した変化ではないのかも知れず、気候としてみりゃ、人間がどうなろうと知ったことではない。自らを変化させたのが人間だとしても、人間に対して何かを思う義理はない。人間の方は思う義理はあるが変化を制御することが出来ない。

 

したがって、人間の方は、変化に対して、元に戻すことの出来る程度のものを褒めたりするしかない。

 

例えば、いままでディズニーランドにいったやつは親米馬鹿ぐらいにおもっていたのだが、万博に行ってみたら、ディズニーランドに行く人は万博がすきな人みたいなもんかもしれないと思った。で、彼らは親鼠病人である、ぐらいの認識に変化した。

我々はいつのまにかミッキーの耳をつけた女子に慣れてしまったが、万博でみゃくみゃくの足とか襞をくっつけた女子とか男子を目の当たりにし彼らの横で御飯を食べたりすると、それなりに親近感がわくというものだ。

万博で驚いたのは車いすの多さで、さすがに世の中変わったわと思った。また、学校や大学ではそれほどみられない、様々なコスプレのひとたちがいたり、同性のカップルが闊歩し、かなりの肥満体の方が嬉しそうにしているなど、――やはりこういうところは逃避の場になってるんだと思った。ディズニーやなにやらもそういう機能になっているのかも知れない。対して、瀬戸芸にはそういう雰囲気はないような気がする。ケアの論理からすると、「芸術」が何か問題を抱えているのは当然である。ケアの論理の先には、非芸術的な娯楽としてのケアが待ち構えている。

 

金曜日にFMでやっていたショスタコービチの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」は英訳版であった。すなわち、聴きながら意味がなんとなくわかるから、妙なかんじであった。演歌みたいな感じがするだけではない。非芸術的な感じがする。解説の人が、この英訳の上演は、言語の障壁を取り払って、このオペラが、ある闊達な女性と、下品で粗野な権力(+下男達)の集合の対立を描いたことを直截に分からせようとしている、みたいな事を言っていた。芸術としてのショスタコービチの音楽において、その女性の音楽と粗野で下品な音楽は、どちらにも精彩があり、対立しているようでいてそうでもなく混濁している。しかしドラマはそうではない。対立は癒やしだが、対立しない混濁は癒やしにはならない。